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なぜ人は哲学とかいうクソムズで役に立たない本に惹かれるのだろうか?

自慢じゃありませんが、わたしは中学生の頃から「哲学書」の類に親しんでいました。

当時、手塚治虫や藤子不二雄といった超絶インテリマンガ家の元ネタを探ったり、安部公房や三島由紀夫といった戦後派作家の影響元であるニーチェやハイデガーといった実存主義系や、チョムスキーやウィトゲンシュタインといった言語哲学の世界に興味を持ちました。

で、いざ読んでみるわけですが、まったく意味不明。
当たり前ですよ、中学生レベルの読解力で。

それでも入門書を読み漁っては、大体の哲学者の言わんとしたいことや、用語は覚えていきました。

歳を重ねるにつれ、有名書の原典も読んでいき、分からないところはネットや哲学辞書で調べ、ノートでまとめていきましたね。

そして何を得たかというと、哲学なんて何の役にも立たないということです。

哲学と哲学者の死

我々が言う「哲学」って所詮、「西洋の考え方」の歴史に過ぎないんですね。
プラトン(ソクラテス)から20世紀前半までの、長い長い「考え方」の物語。

その終焉期たる20世紀前半。

ジャン=ポール・サルトルの講演会では、それこそロックコンサートのごとく、黄色い歓声が上がっていたそうです。
WW2直後、多くのインテリ学生たちは、自分たちの存在に危機感を抱いていました。アイデンティティ・クライシスってやつですね。そこで救いとなったのが、実存主義であり、マルクス主義でした。
サルトルはその旗手であり、肖像画を部屋に飾ることも普通だったとか……ノーベル賞も神も否定したのに、本人はスターと化していたのです。

しかし、盛者必衰の理、レヴィ=ストロースの構造主義によって、サルトルはおろか、西洋哲学自体に終止符が打たれます。

実際、レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーなどポストモダン系の人たちは、自身を「哲学者」と称しませんでした。
「文化人類学者」だったり、「知の考古学者」だったり……

かくあって、古代ギリシア以来の2500年にわたる「哲学」および「哲学者」は滅びたわけです。

ゾンビ化した哲学というイミフ学問

今、デカルトやライプニッツやカントが生きていたら、100000% 大学の哲学科にはいません。
認知科学や脳科学をやっています、絶対。
だって彼らの目的は、「真理追求」なんですから。答えの出ない言葉遊びなんて、するわけないじゃないですか。
せいぜい、時事問題を語ったりする程度でしょう。

上記のとおり、哲学は死にました。
だからというわけではありませんが、わたしは哲学を専門にやった経験はありません。
すべて、独学です。
これからも専門で学ぶことはないでしょう。
だって、意味ないから。
ゾンビと戯れるほど暇じゃありません。

ところで数年前、ヨーロッパのある国に滞在していました。
留学している日本人と会うと、なぜだか「哲学を学びに来ている」という人が多かったのです(ただし全員男)。

わたしは聞きました。
「なんで?(そんなオワコン学問を?)」
いわく、「日本の大学(旧帝大)で哲学を専攻していて、やはり本場で留学しないといけないと思ったから」

……明治〜昭和初期までだったらともかく、令和の今でもこんな奴がいるのか……と思ったものです。

もちろん、何を学ぼうが人の勝手なんですけどね。
でもわたしには、どこか解せない感じがして仕方なかったです。

哲学をやる ≠ 頭が良くなる(笑)

わたしの経験上、留学組も国内大学生でも、哲学を専門にやっている人に魅力を感じることはありませんでした。
なんか、インテリジェンスを感じない……みたいな……
「自分の頭で考えていない」という気がして、しょうがなかったのです。

ショーペンハウアーは、「読書ばっかしてっと、バカになるぞ」と言い放ちましたが、まさしくその通り。
名門大学で有名な教授から哲学を教わっても、決して頭はよくなりません(わたし調べ)。

そもそも、なんでみんな哲学書なんか買ってるの?

大型書店へ行きますと、哲学系の本が平積みにされており、年に数冊はベストセラーになります。
古典から新刊まで、小難しくて値段張るやつが。

哲学・思想書の世界に足を踏み入れた中学の頃、そんな光景は楽園でした。
「読みたい本がこんなにある!」と胸を高鳴らせたものです。

しかし今は、「なんだかなあ」とため息が出てしまう。
手に取って奥付を見ると、なんと販売からわずか3ヶ月で、5刷されているじゃないですか。しかも、値段は5千円近くで、数百ページあるハードカバー。パラパラめくってチラ読みしてみるも……何を書いているやら。それが10万部突破……?

誰が買ってんだ?」と思うのです。
わたしの推測ですが、この国の知識人層は200万人、あるいはそれ以下と見積もっています。
大学教授や批評家などがそんなにいるはずがない。
となると、流行に乗せられたインテリかぶれが主な購買者ということになります。
あと、「こんな難しい本を読んでいる俺カッケー」といいますか、まあスノッブに浸りたいのですね。

ですが、そしてその人達は、果たしてこの本を理解できたのか……というか読み切れたのか……?

それでも哲学をやってしまう人へ

わたしのことです。

仕事柄もありますが、どうしても哲学・思想系の本は周りに山積みされています。

熟読せねば、という古典もたくさんあって、今はカントの『判断力批判』(光文社古典新訳文庫で上下約1000ページ)をノートに取りながらせっせとやっております……

とても恥ずかしいことです。

だって、AI様が支配する令和ですよ?
それなのに、200年以上前のワケの分からんクソムズ文章満載のドイツ人が書いた哲学書なんざを、なぜ読解せにゃならんのか……?

それでも、です。
それでも読んでしまうのは、結局わたしが、「考えることしかできない人間」だからなのです。
考えるのは大好きであると同時に、大嫌いでもあります。

自分が好きなこと→考えること
自分が嫌いなこと→考えすぎること

こんな感じ。
でもそれしかできない。
それを文章や何かに表すしかできない。

その道具として、わたしには哲学があるのです……多分。

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